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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)5359号 判決

甲事件原告(乙事件被告)

宮嵜智雄

宮嵜蕗苳

甲事件原告(乙事件被告)両名訴訟代理人弁護士

阿比留兼吉

右同

上田弘毅

甲事件被告(乙事件原告)亡宮嵜真英訴訟承継人

宮嵜多喜子

甲事件被告亡宮嵜世民訴訟承継人

宮嵜千代

川添黎

グリーブ有

甲事件被告ら(うち一名乙事件原告)訴訟代理人弁護士

淵上貫之

藤森洋

星野タカ

右淵上貫之訴訟復代理人弁護士

鈴木国夫

主文

一  甲事件原告(乙事件被告)らと甲事件被告(乙事件原告)宮嵜多喜子との間において、別紙物件目録記載一及び同二の各土地につき、甲事件原告(乙事件被告)らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することを確認する。

二  甲事件被告(乙事件原告)宮嵜多喜子は、甲事件原告(乙事件被告)らに対し、別紙物件目録記載一及び同二の各土地のいずれも四分の一の持分につき、それぞれ真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をせよ。

三  甲事件原告(乙事件被告)らと、甲事件被告宮嵜千代、同川添黎、同グリーブ有との間において、別紙物件目録記載三の土地につき、甲事件原告(乙事件被告)らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することを確認する。

四  甲事件被告宮嵜千代、同川添黎、同グリーブ有は、甲事件原告(乙事件被告)らに対し、別紙物件目録記載三の土地のいずれも四分の一の持分につき、それぞれ真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をせよ。

五  乙事件原告(甲事件被告)宮嵜多喜子の乙事件請求を棄却する。

六  訴訟費用は、甲事件について生じた部分は、これを二分し、その一を甲事件被告(乙事件原告)宮嵜多喜子の負担とし、その余は甲事件被告宮嵜千代、同川添黎、同グリーブ有の負担とし、乙事件について生じた部分は乙事件原告(甲事件被告)宮嵜多喜子の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

(甲事件)

一  請求の趣旨

1 甲事件原告(乙事件被告、以下甲、乙事件を通じ「原告」という。)らと甲事件被告(乙事件原告)宮嵜多喜子(以下甲、乙事件を通じ「被告多喜子」という。)との間において、別紙物件目録記載一及び同二の各土地につき、原告らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することを確認する。

2 被告多喜子は、原告らに対し、別紙物件目録記載一及び同二の各土地のいずれも四分の一の持分につき、それぞれ真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をせよ。

3 原告らと、甲事件被告宮嵜千代(以下甲、乙事件を通じ「被告千代」という。)、同川添黎(以下甲、乙事件を通じ、「被告黎」という。)、同グリーブ有(以下甲、乙事件を通じ「被告有」という。)との間において、別紙物件目録記載三の土地につき、原告らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することを確認する。

4 被告千代、同黎、同有は、原告らに対し、別紙物件目録記載三の土地のいずれも四分の一の持分につき、それぞれ真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をせよ。

5 訴訟費用は、甲事件被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1 原告らの請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

(乙事件)

一  請求の趣旨

1 原告らは、被告多喜子に対し、別紙物件目録記載五の建物を収去して、同目録記載一の土地を明け渡せ。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1 被告多喜子の請求を棄却する。

2 訴訟費用は被告多喜子の負担とする。

第二  当事者の主張

(甲事件)

一  請求原因

1 訴外福島信敏(以下「福島」という。)は、別紙物件目録記載一ないし三の各土地(以下「本件各土地」といい、それぞれの土地を同目録中のそれぞれの番号で表示する。)を、もと所有していた。

2 訴外宮嵜龍介(以下「龍介」という。)は、福島から、昭和九年一一月ころ、本件各土地を買い受けた。

龍介が本件各土地を買い受けた事情は次のとおりである。

(1) 龍介の父(原告らの祖父)である宮嵜虎蔵(以下「虎蔵」という。)は、熊本県荒尾市の素封家の末子として生まれた。虎蔵は、自由民権を唱えた長兄八郎、土地均享論を説いた二兄民蔵、三兄弥蔵等から思想上の影響を受け、一八八七年(明治二〇年)ころから、当時の列強国の帝国主義化に対し、このまま放置すれば、中国、朝鮮、日本等のアジア諸国家は総て列強、帝国主義国の支配下に収められることになるとの危機感を抱き、これを防ぐためには清国に革命を起こし同国を漢民族の手によって他国の介入を受けない自由民権国家とすることが必要であり、これにより我が国をはじめアジア諸国が真の自由民権国家になることができると考えるに至り、このころから三兄弥蔵とともに清国の革命運動を志すようになった。

虎蔵は、一八九七年(明治三〇年)亡命して横浜に逗留していた孫文と会見し、孫文の人格等に共感して、以後、日本国内にあっては孫文の身の安全を図り、清国革命の同志を糾合し、華南においては中国革命党やフィリピンの独立運動の武装発起を画策したり、香港においては孫文を総理とする興漢会の設立や、一九〇〇年(明治三三年)一〇月の恵州事件等に尽力した。また、一九〇五年(明治三八年)八月に孫文と黄興の提携に尽力して、孫文を総理とする中国革命同盟会を設立させ、虎蔵自身その日本全権委員になるなど、孫文による中国革命に尽力した。一九一一年(明治四四年)には、辛亥革命の成功を助け、また、第二、第三革命に及ぶまで、常に孫文による革命の援助に尽力したが、一九二二年(大正一一年)死亡した。

(2) 一方民蔵も、孫文による辛亥革命成功後孫文の中国革命に協力した。

(3) 孫文の死後、一九二七年一一月二日中国国民党はその特別中央委員会において、孫文の意思に従い、虎蔵の中国革命に対する貢献を高く評価し、英霊を慰め敬意を表するために、石碑を建立することを決議した。

(4) その後、昭和三年八月一五日に民蔵が死亡した際、同人に多額の負債があったため、同人の家督相続人である訴訟承継前の甲事件被告宮嵜世民(以下「世民」という。)は限定相続をし、虎蔵及び民蔵の生家が他人に渡った。

この生家は、孫文が来日した際、滞在したことのあるものであった。

中国国民党は、右生家が他人に渡ったことを知り、中央執行委員会第四六回常会等において、民蔵、虎蔵の中国革命に対する貢献に報いるとともに、日中友好の象徴としてまた孫文滞日の記念とするため、右生家を買い戻し、「孫中山先生永久記念会」名義の財団法人を設立して、同法人に右生家を管理させる方針を決定し、右生家の買収資金として中国国幣二万元(一万三一五五円九九銭)を出資することを決議した。

中国国民党は、昭和五年、中華民国上海に滞在していた民蔵の妻である宮嵜美以ことミイ(以下「ミイ」という。)に対し、生家の買収資金の中から金三〇〇〇円を交付した。

(5) その後、中国国民党は、一九三〇年八月ころ、前記財団法人「孫中山先生永久記念会」設立準備委員に龍介及び亡楊寿の二名を任命し、また既にミイに交付した金額を差し引いた右買収資金の残額(一万〇一五五円九九銭)を龍介及び亡楊寿の両名あてに送付した。

(6) 龍介は、弟の訴外宮嵜震作(以下「震作」という。)をして、中国国民党から龍介らあてに送付された資金で民蔵及び虎蔵の生家の買い戻し交渉をさせたが、宮嵜家には中国から莫大な資金が送られてきたとの噂が広がったため、代金の折り合いが付かず、生家の買い戻しができなかった。

(7) そこで龍介は、右生家に近い場所に孫文の滞日記念館を建設することが中国国民党の意思に沿うものと考え、中国国民党の同意を得て、右買収資金で震作をして、本件各土地及び同土地に隣接する別紙物件目録四記載の土地(以下「一九六番地の土地」という。)を購入させ、また、別紙物件目録五記載の建物(以下「本件建物」という。)を建設させた。

ところが、「孫中山先生記念会」名義の財団法人設立は、当時の日中関係の実情から設立許可がおりなかった。

ところで、前記のとおり、右買収資金を出資した中国国民党の意思は「孫中山先生記念会」名義の財団法人を設立し、同法人に、買い戻した民蔵及び虎蔵の生家を所有させ管理させるということにあったが、財団法人の設立が遅れた場合には、生家を龍介と世民の共有とし、財団法人設立後その所有権を財団法人に移転させるということにあった。

龍介が本件各土地を買い受けた事情は以上のとおりである。

(8) 龍介は、本件各土地を購入したが財団法人を設立することができなかったため、その後、本件各土地の二分の一の共有持分を、世民に対して譲渡した。

そうでないとしても、龍介は、本件各土地を、世民との共有(持分は各自二分の一)で買い受けたものである。また、少なくとも財団法人を設立できなくなった時点で、本件各土地は、龍介と世民との共有(持分は各自二分の一)になった。

3 龍介は、昭和四六年一月二三日死亡した。甲事件原告(乙事件被告)宮嵜蕗苳は龍介の子であり、同宮嵜智雄は龍介の養子である。

4 ところで、訴訟承継前の甲事件被告宮嵜真英(以下「真英」という。)は、本件一及び二の各土地につき、熊本地方法務局荒尾出張所昭和四五年一二月七日受付第六〇〇三号所有権移転登記をした。また、被告多喜子は、右各土地につき、熊本地方法務局荒尾出張所昭和六一年九月一日受付第五六八二号所有権移転登記をした。

5 世民は、本件三の土地につき、熊本地方法務局荒尾出張所昭和二八年三月二三日受付第三九二号所有権移転登記をした。

6 世民は、昭和六〇年八月一九日死亡した。被告千代は世民の妻であり、同黎及び同有は世民の子である。

7 よって、原告らは、いずれも持分四分の一の共有持分権に基づいて、

(1) 原告らと被告多喜子との間において、別紙物件目録記載一及び同二の各土地につき、原告らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することの確認を、

(2) 被告多喜子に対し、別紙物件目録記載一及び同二の各土地についての原告らの共有持分各四分の一につき、真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をすることを、

(3) 原告らと被告千代、同黎、同有との間において、別紙物件目録記載三の土地につき、原告らがそれぞれ四分の一の共有持分を有することの確認を、

(4) 被告千代、同黎、同有に対し、別紙物件目録記載三の土地についての原告らの共有持分各四分の一につき、真正な登記名義の回復を原因とする所有権一部移転登記手続をすることを、

それぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の前文の事実は否認する。

同2(1)以下の事情については、(1)及び(2)の事実は認める。(3)は不知。

(4)については、民蔵が死亡した際多額の借金が残ったこと、民蔵らの生家が他人に渡ったことは認め、中国国民党中央執行委員会第四六回常会等における決議内容は不知。中国国民党がミイに金三〇〇〇円を交付したことは否認する。

(5)のうち、龍介らが、財団法人設立準備委員に任命されたことは不知で、その余の事実は否認する。

(6)のうち、中国国民党から龍介らあてに資金が送付されたことは否認し、その余の事実は認める。

(7)のうち、震作が本件各土地の購入及び本件建物の建築を行ったことは認め、その余の事実は否認する。

龍介は、ミイの居住のために、本件各土地を購入し、本件建物を建築したのである。

(8)の主張は争う。

3 請求原因3ないし6の事実は認める。

三  抗弁及び甲事件被告らの主張

1 世民による本件各土地の時効取得

(1) 世民は、昭和二一年九月ころ、ミイ及び世民の姉宮嵜貞子を本件建物に居住させることにより本件建物の敷地となっている本件各土地の占有を開始した。

(2) 世民には、右占有開始時において、本件各土地全部について世民が所有権を有すると信じたことに過失はなかった。

(3) 世民は、昭和三一年九月に、世民の弟宮嵜真道の妻宮嵜豊子及び豊子の姉日笠まさ子を本件建物に居住させることにより本件各土地を占有していた。

(4) 世民は、昭和四一年九月に、豊子及びまさ子を本件建物に居住させることにより本件各土地を占有していた。

(5) 世民は、昭和五一年九月二四日本件口頭弁論期日において時効を援用する旨の意思表示をした。

2 龍介が本件各土地を買い受けるための交渉をするに至った事情

原告らの主張は、真実に合致しないものであり、龍介は、世民が本件各土地を買い受けるにあたって、次のような事情により、世民の代わりに交渉をしたにすぎない。

中国国民党は、沈卓吾を通じて、世民、真英の父である宮嵜民蔵、龍介の父であり原告らの祖父である宮嵜虎蔵両名が中国革命に奔走したため、戸主を民蔵とする宮嵜家が多額の債務を負い、民蔵の死亡により世民が限定相続したことによって、民蔵、虎蔵の生家を手放すことになったことを知った。中国国民党は、宮嵜家のこのような窮状を憂慮し、また、右生家が孫文の滞在したことのある孫文ゆかりのものであったことから、中央執行委員会第四六回常会において右生家を宮嵜家の家督相続人である世民に買い戻させ、これを同家に保存させようという趣旨で、世民に二万元を出資する旨の決議をし、一九三〇年四月一四日世民の母である民蔵未亡人宮嵜ミイに右出資金全額を交付した。したがって、中国国民党からの出資金は名宛人を世民として、同人に対し贈与されたものである。

その後、龍介が生家の買い戻しを実行しなかったため、本件各土地は生家買い戻しに代わるものとして、世民あてに中国国民党から贈与された資金で購入された。その際、龍介は、世民の代わりに、つまり、世民の代理人または使者として、本件各土地の売買の交渉をしたにすぎないから、本件各土地の所有権は世民にある。

四  抗弁及び甲事件被告らの主張に対する認否

1 抗弁1(1)、(3)、(4)の事実のうち、本件各土地の一部が本件建物の敷地として利用されていること、被告主張の時期に被告主張の者が本件建物に居住していたことは認め、その余の事実は否認する。同1(2)の事実は否認する。

2 同2の被告らの主張については、民蔵が世民及び真英の父であり、虎蔵が龍介の父であり原告らの祖父であること、民蔵が多額の債務を負っていたこと、民蔵が死亡して世民が家督相続したが限定相続したため生家を手放すことになったこと、生家が孫文の滞在したことのある孫文ゆかりのものであったこと、本件各土地は生家買い戻しに代わるものであることは認め、その余の事実は否認する。

民蔵は、中国で、辛亥革命成功後、孫文の革命に協力するとともに、事業経営に手を出したため、これに失敗し、多額の債務を負担することになったのである。

五  再抗弁

(抗弁1に対して他主占有)

世民は、本件各土地の占有開始時に、本件各土地が龍介との共有に属するとの認識を有しており、したがって、世民の占有は、他主占有である。

六 再抗弁に対する認否

再抗弁事実は否認する。

(乙事件)

一  請求原因

1 福島は、本件各土地を、もと所有していた。

2 世民は、福島から、昭和九年一二月ころ、本件各土地を買い受けた。

3 世民は、真英に対し、昭和四五年一二月一日、本件一の土地を贈与した。

4 真英は昭和六〇年一二月九日死亡した。被告多喜子は真英の妻である。

5 甲事件抗弁1(取得時効)と同じ。

6 ところが、原告らは、本件一の土地上にある本件建物につきそれぞれ四分の一の共有持分を有し、本件一の土地を占有している。

7 よって、被告多喜子は、原告らに対し、本件一の土地の所有権に基づいて、本件建物を収去して本件一の土地を明け渡すことを求める。

二  請求原因に対する認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2は否認する。

3 同3及び同4は認める。ただし、本件一の土地については、原告らがそれぞれ四分の一の共有持分を有するから、世民から真英に対して贈与があったとしても、二分の一の持分が移転したにすぎず、したがって被告多喜子は、二分の一の持分を相続しただけである。

4 同5については、甲事件抗弁1に対する認否と同じ。

5 同6のうち、原告らが本件建物にそれぞれ四分の一の共有持分を有していることは認める。

三  抗弁

1 (請求原因5に対して他主占有)

甲事件再抗弁と同じ。

2 (請求原因6に対して使用貸借)

(1) 世民と原告らは、本件各土地について使用貸借契約を締結した。

(2) 右契約締結にあたり、世民と原告らは、本件各土地を孫文を記念するための記念館の敷地として利用する旨、使用目的の合意をした。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実はすべて否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

(甲事件)

一請求原因について

1  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

2  同2については、(1)及び(2)の事実、(4)のうち民蔵が死亡した際多額の借金が残った事実及び民蔵らの生家が他人に渡った事実、(6)のうち中国国民党から龍介らあてに資金が送付された事実を除くその余の事実、(7)のうち震作が本件各土地の購入及び本件建物の建築を行った事実は、それぞれ、当事者間に争いがない。

そこで、同2のうちのその余の事実について以下検討する。

(1) 〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

虎蔵は、明治二五年より中国に渡り、中国革命運動に関わりをもったが、明治三〇年、三民主義を称えてその第一回革命に失敗して横浜に亡命中であった孫文と親交をもち、同年孫文を伴って虎蔵、民蔵の生家に至り、孫文を約一週間滞在させた。当時民蔵が渡米中で留守であったため、虎蔵は、民蔵の妻ミイ、虎蔵の妻ツチらと共に孫文を応接した。その後、虎蔵は、孫文を助け、中国国民党の革命に参加し、計画に参画した。孫文は、大正二年二月、再び右生家を訪ねたが、この時も民蔵は不在で、虎蔵、ミイ、ツチらが応接した。虎蔵は、大正一一年一二月、東京都豊島区で死亡したが、中国国民党中央特別委員会は、龍介に対し、石碑を建立し、英霊を慰めたい旨の書面を送った。

一方、民蔵は、明治一三年三月三一日、父の長蔵の死亡により、民蔵、虎蔵の生家その他の財産を家督相続した。民蔵は、明治三五年二月、虎蔵夫妻とともに当時横浜に住んでいた孫文を訪ね、孫文と相識ることとなった。民蔵は、その後、第二、第三の中国革命に失敗した孫文の同士をかくまって力を貸したり、大正二年ころより時々会談するなど、孫文と親交があった。民蔵は、昭和三年八月一五日死亡したが、中国国民党蒋介石総司令は香典を送金している。

(2) 〈証拠〉によれば、世民の弟である世龍が、中国晩報社の社長で国民党の上海地区幹部であったと思われる沈卓吾に対し、世民が限定相続をしたため、民蔵及び虎蔵の生家が他人の手に渡ったことを知らせたところ、沈卓吾は世龍に対し、中国国民党に建議して生家を中国国民党が贈与し、もって民蔵、虎蔵の靈を慰めたい旨を記載した手紙を書いた事実を認めることができる。

(3) 〈証拠〉によれば、中国国民党は、民蔵、虎蔵の生家を買い戻して、生家を孫文の日本における永久的記念とすること及び買い戻し資金を支出する旨決議し、また、買い戻しに必要な金額を調べるよう指示したことを認めることができる。

(4) 〈証拠〉によれば、沈卓吾がミイに対し、すでに資金は整えてあり、書面で返済に必要な金額及び債権者の名前を知らせて欲しい、また感謝状も書くこと、中国国民党はミイの手紙を受け取った後直ちに資金を日本に送付すること、日本にいる同志を差し向け宮嵜家の人とともに然るべく処置すること、資金は、債務を全部返済するほかに、記念と保存のためのものも送付すること、中国国民党の意思として、家屋は宮嵜家の子孫の永久居住のために贈与することとするが、他人に譲渡することはできず、生家の主権は中国国民党に属することになるなどを記載した手紙を書いた事実を認めることができる。

(5) 〈証拠〉によれば、陳立夫は、ミイに対し、国民党が出資して、生家を孫文の日本における永久の記念として買い戻す件が決議され、まず二万元を拠出し、謝作民同志を派遣するので、手続の一切は同人と話し合ってもらいたい旨を記載した手紙を書いた事実を認めることができる。

(6) 〈証拠〉によれば、中央財務委員会第四三次会議において、謝作民が、生家を買い戻す件について委細を報告し、その方法を提案した事実を認めることができる。

(7) 〈証拠〉によれば、中国国民党中央執行委員会秘書処が、龍介に対し、生家を買い戻して永久的記念とする件について、財団法人「孫中山先生永久記念会」の名義で現地政府に登録することと、龍介と楊寿彭がその準備委員を担当することを決議した旨の手紙を出した事実を認めることができる。

(8) 〈証拠〉によれば、謝作民が、龍介及び楊寿彭に対し、次のような内容の手紙を書いた事実を認めることができる。

つまり、中国国民党中央執行委員会中央常務委員会は、生家を買い戻し、孫文の日本における永久的記念とする件について、(1)生家は、財団法人「孫中山先生永久記念会」の名義で現地政府に登録すること、(2)時間の関係で必要な場合には、龍介及び世民が地主から生家を買い戻してから財団法人の管理に変えること、(3)龍介及び楊寿彭を準備委員に指名したこと、(4)財団法人の五名の理事は、龍介及び楊寿彭のほか、萱野長知、劉紀文及び世民が担当すること、(5)その他一切の事項は、謝作民が書翰で龍介及び楊寿彭と相談したうえで処置すること等を決定し、また、中央から、日本円一万三一五五円九九銭を支出し、その中からミイに三〇〇〇円を渡したが、残金は神戸の匯豊銀行に入金してあり、額面金一万〇一五五円九九銭の小切手一枚と、金額白紙の小切手一枚を同封するので、利息分をその小切手に記載して、二枚の小切手を換金し、龍介及び楊寿彭が連署した領収書を送付すること、なお、世民から、地主の希望の最低金額は七〇〇〇円であるとの作民あての電報を受け取ったなどがその内容である。

(9) 〈証拠〉によれば、楊寿彭が、龍介に対し、次のような内容の手紙を書いた事実を認めることができる。

つまり、中央党部より、龍介あての手紙が着いたので同封する。孫文永久記念のために生家を買収し、「孫総理永久記念会」という財団法人を組織するが、龍介と楊寿彭がその準備委員に任命されたので、実行について意見を伺いたい。楊寿彭の意見は、(1)法人の組織について速やかにその手続を執る、(2)法人名義で生家を買収する、(3)土地の価格は世民から中央にあてた電報によると七〇〇〇円であり、また、生家は現に弁護士会の管理下にあるから、生家の価格を確定のうえ売買契約を結ぶというものであるが、この意見について検討されたい、中央より送付された小切手は楊寿彭が手元に保管するなどというのがその内容である。

(10) 〈証拠〉によれば、宮嵜世龍は、昭和四六年六月六日、次のような内容のメモをしていた事実を認めることができる。

つまり、同人が伝聞するところでは、謝作民夫妻は、亡虎蔵の妻であるツチ、龍介と会い、宮嵜家保存の具体的な話し合いが行われたようである。中国国民党が支出する買い戻し資金二万元で生家を買い戻せるはずであったが、中国国民党の出資が新聞に報道されたため、債権者たちが大きく吹きかけたとかで、買い戻しはやめになり、現在の中山記念館と宮嵜家代々の墓を設立することになり、中国側からの資金を受け取って、設計工事などは龍介の弟である震作が担当した。また、話し合いで、「保存委員会」のようなものができて、その委員には、世民、龍介、頭山満、萱野長知らが名前を並べていた。だが、委員会は、自然消滅し、結局世民と龍介の名義だけになったというのがその内容である。

(11) 〈証拠〉によれば、本件各土地の所有者であった福島信敏は、龍介に対し、昭和九年一二月、本件各土地の売買代金の領収書を交付していた事実を認めることができる。

(12) 〈証拠〉によれば、一九六番地の土地の所有者であった林茂は、震作に対し、一九六番地の土地の売買代金の領収書を交付していた事実を認めることができる。

(13) 〈証拠〉によれば、龍介らは、財団法人「孫中山記念館」設立の手続を進め、昭和一〇年五月頃、熊本県知事宛の理事を龍介、世民、震作とする財団法人設立許可申請書及び寄付行為に関する規定の案を作成した事実を認めることができる。

(14) 〈証拠〉によれば、司法書士である福島が、龍介に対し、先年買収に係る本件土地及び一九六番地の土地の所有権移転登記申請の依頼を受けたが、その土地に抵当権の設定があることを知り、抹消の交渉のため、急速に移転登記ができない旨の手紙を書いた事実を認めることができる。

(15) 〈証拠〉によると、次の事実が認められる。

a 世民は、大正一四年三月大学を卒業し、徴兵により熊本の連隊に入隊していたが、昭和の初めころ除隊した。昭和三年民蔵が死亡し、その多額の債務のため生家が競売されることになり、昭和四年一月東京都杉並区阿佐ケ谷に借地をし、建物を建築し、ミイとともに住むようになった。

b 虎蔵は、既に東京都豊島区目白に居住していた。龍介は、虎蔵とともに右場所で生活し、大学卒業後弁護士となった。

c ミイは、昭和五年ころ、世龍とともに上海に渡り、中国国民党より小切手で、三〇〇〇円の金員の交付を受けたが、ミイはこれを日本に持ちかえり、龍介に渡した。

d 龍介は、生家の買い戻しの交渉を、当時熊本県に居住していた弟の震作に頼んだ。しかし、震作は、生家の買い戻しをすることができず、その代わりに、本件各土地及び一九六番地の土地を買い、本件建物を建築し、宮嵜家の墓地をつくった。

e 本件建物建築後、一時震作が建物に住んでいたが、終戦後は、ミイ、宮嵜貞子、宮嵜豊子、日笠まさらが居住していた。

f 本件土地の上に宮嵜家の墓地があるが、これには、民蔵、虎蔵、ミイ、ツチその他の宮嵜家の死亡者が葬られている。

g 一九六番地の土地については、昭和一七年三月九日受付第三四五号により、同月三日売買を原因とする龍介、世民のための共有持分二分の一ずつの所有権取得登記がされた。本件建物については、表題部所有者欄に龍介と世民の記載がされた後、昭和四六年七月二七日受付第四一八一号により、共有者を世民(持分四分の二)、智雄(持分四分の一)、蕗苳(持分四分の一)とする所有権保存登記がされた。世民は、右の登記について、龍介に対し特段の異論を唱えたことはない。

以上のとおりの各事実が認められる。そして、以上の各事実によれば、本件各土地の売買の事情については、次のような事実を推認することができる。

すなわち、世龍は、沈卓吾に対して、世民が限定相続したため、民蔵らの生家を手放すことになったことを知らせた。右事実を知った沈卓吾は、中国革命に尽力した虎蔵、民蔵の生家が他人の手に渡ってしまうことに深く同情し、中国国民党に対し、宮嵜家の援助を要請した。中国国民党は、虎蔵、民蔵の功績に報いるために、宮嵜家に対する援助を承諾した。中国国民党は、その後内部で検討を重ねるうちに、民蔵らの生家を買い戻す資金を提供することを決定したが、買い戻しについては、孫文を記念するために、財団法人孫中山先生永久記念会を設立して民蔵らの生家を保存するとともに、生家を宮嵜家の子孫に管理させ居住させ、法人設立が間に合わないときは、龍介、世民が地主から生家を買い戻し、その後法人の管理に変更するよう指示した。これに基づき、中国国民党から、ミイと龍介に分けて、合計二万元の金員が渡されたが、ミイは龍介に手渡し、龍介は震作に生家の買い戻しの交渉を頼んだ。龍介らは、中国国民党の指示に従い、生家買い戻しの交渉をした。ところが、龍介らは生家を買い戻すことができなかった。そこで、龍介は、生家にかわるものとして、別の土地(本件各土地及び一九六番地の土地)を買った。そして、この土地に本件建物(登記簿上は診療所であるが、実際は記念館)を建て、墓地をつくった。龍介は、中国国民党の指示にしたがい、財団法人を設立しようとしたが、当時の日中関係の実情から設立することができなかった。龍介と世民は、その後、本件各土地の処理に関し、特に話し合いをして決めたことはなく、昭和一七年になって、一九六番地の土地が龍介と世民との共有名義に登記され、また、本件建物について、そのころ家屋台帳上龍介と世民の共有と記載され、昭和四六年に、龍介の子供である智雄、蕗苳と、世民との共有名義に保存登記された。

そこで、右事実から、本件各土地の所有権はだれに帰属することになるのかを検討する。

中国国民党は、虎蔵、民蔵の貢献に報いるために、両者の子孫に生家を買い戻させる意図であり、龍介は、一貫して中国国民党の指示を受けて行動していたのであるから、本件各土地及び一九六番地の土地については、龍介と世民が買い主となり、地主から買い受けた後財団法人に移行する予定であったが、財団法人が設立できなかったものと認められる。

つまり、龍介は、生家の買い戻しのための交渉をし、その際龍介は、資金を拠出する中国国民党の指示を受けていた。したがって、龍介は、生家を買い戻すことができた場合、生家の所有権を財団法人に帰属させるか、仮に財団法人の設立が遅れた場合には龍介及び世民が管理するつもりであった。そして本件では、買い戻すときまでに財団法人の設立ができなかったのであるから、結局龍介は、龍介及び世民が管理するつもりで、換言すると、財団法人が設立されるまでは龍介及び世民が共有する意思で、本件各土地を購入したということができる。

なお、本件の場合、生家を買い戻すことができず、近くにある本件各土地を購入したにすぎないので、この事実が右認定に影響しないかを検討する。確かに、生家とは無関係の土地を購入したことは、中国国民党の指示に従ったかどうかは必ずしも明らかでない。しかしながら、生家と無関係の土地を購入したといっても、そうであるからといって龍介が本件各土地を全くの自己所有地として管理していこうと考えていたわけではなく、やはり、宮嵜家に属する土地として管理していこうと考えていたことは前記認定事実から明らかであり、また、資金を中国国民党が拠出したことには変わりなく、そのため龍介は中国国民党の指示にできるだけ従おうとしていたのである。

したがって以上によれば、龍介は、生家を買い戻すことができなかったといっても、龍介及び世民が共有する意思で、本件各土地を購入したという事実を認定することができるというべきである。

他方、これらの事実に対して、被告らは、次のような事実を主張するので以下検討する。

世民がどのような意思であったかについては、世民は、その本人尋問において次のとおり供述している。すなわち、世民は、父である民蔵の生家を限定相続して手放したこと、母であるミイが窮状を訴えたのがきっかけで買い戻しがはじまったこと、龍介が買い戻し交渉の経過を報告していたものの中国国民党の指示等は知らされていなかったことなどの事情から、買い戻した生家またはそれに代わる本件各土地は世民の所有に属するものというつもりであったというのである。しかし、世民は、当時龍介と親しい親族関係にあり、ミイも龍介を訪ね、中国国民党から受け取った金員を預けていることなどから、世民は、宮嵜家における虎蔵の中国国民党に対する貢献度、中国国民党の意図、指示を龍介から聞いているはずであり、したがって、その後の本件各土地の買い受けの経緯も龍介から報告を受けていたものと推認すべきであるので、右の供述は措信することができない。

また、被告らは、ミイが、謝作民から、生家買い戻しの資金である二万元を、上海で小切手で受け取り、その小切手を龍介に渡して、生家買い戻しの交渉を依頼したと主張する。

確かに、〈証拠〉によると、謝作民がミイに宛てた封筒には、「内函附支票乙件計国幣二万元」と記載されているし、〈証拠〉によると、手紙には、「国幣二万元を拠出し、謝作民同志を派してお届け申上げます故、御査収下され度く」と記載されている。また、訴訟承継前の被告宮嵜真英は、真英がミイから、上海で小切手二万元を受け取ったと聞いており、実際に真英が小切手を見たこと、ミイが龍介に対し、生家買い戻しの交渉を依頼した旨供述するし、さらに、訴訟承継前の被告宮嵜世民も、ミイが二万元を受け取ったという旨を供述する。しかしながら、前記認定事実を総合して考慮すると、前記(8)のとおり、謝作民が龍介に対し、ミイに三〇〇〇円を渡したという内容の手紙を出していることからしても、被告真英の供述は採用しない。被告世民の供述も、真英からの伝聞に基づくものであるから、同様に採用しない。また、〈証拠〉には前記のとおりの記載があるけれども、右事実によってもいまだ、被告ら主張のようなミイが二万元の小切手を受け取った事実を推認するに足りず、他に被告ら主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

また、〈証拠〉によれば、本件各土地につき、昭和二八年三月二〇日の売買を原因として、世民に対する所有権取得登記がされたことが認められるが、〈証拠〉によれば、前記所有者の福島は、本件各土地の買い主は宮嵜家の者ならだれでもよいという趣旨で登記申請書を作成したものであり、右登記は、龍介の了解なしに世民単独で登記したものと認められるので、この事実によっても、前記認定事実を覆すに足りない。

そうすると結局、本件各土地は、前記認定のとおり、龍介と世民が共有の意思で買い受けたものと認められる。

3  請求原因3ないし6は当事者間に争いがない。

二抗弁及び再抗弁について

1  抗弁1(1)、(3)、(4)の事実のうち、本件各土地が本件建物の敷地として利用されていること、被告主張の時期に被告主張の者が本件建物に居住していたことは当事者間に争いがない。

2  そこで、同1(1)、(3)、(4)の事実のうちの右争いのない事実を除くその余の事実、同1(2)の事実、及び再抗弁(他主占有)の事実のついて判断する。

前記認定事実からすると、世民は、昭和二一年当時、本件各土地について、龍介との共有であるとの意思を有していたと認めることができるから、世民が本件各土地を単独所有の意思に基づき占有していたことを理由とする取得時効の主張は理由がないことになる。

したがって、結論として、取得時効は認められない。

三以上より、甲事件については、原告らの主張はいずれも理由がある。

(乙事件)

一請求原因について

1  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

2  同2の事実については、甲事件請求原因で判断したとおりであり、龍介と世民は、本件各土地を、各自の持分を二分の一として共有で買い受けた事実が認められる。

3  同3の事実は当事者間に争いがない。ただし、世民から真英に対して本件一の土地の贈与があったとしても、右のとおり、世民は二分の一の共有持分を有していたにすぎないから、結局世民から真英に対しては二分の一の共有持分が移転したにすぎない。

4  同4の事実は当事者間に争いがない。ただし、右のとおり、真英は二分の一の共有持分を有していたにすぎないから、結局真英から被告多喜子に対しては二分の一の共有持分が移転したにすぎない。

5  同5の事実については、甲事件抗弁で判断したとおりである。結論として、世民は、昭和二一年当時、本件各土地について、龍介との共有であるとの意思を有していたと認めることができるから、世民が本件各土地を単独所有の意思に基づき占有していたことを理由とする取得時効の主張は理由がない。

6  そこで以上の請求原因事実を検討すると、右のとおり、本件一土地については、被告多喜子が持分二分の一の割合で、原告蕗苳と原告智雄がそれぞれ持分四分の一の割合で、共有している事実が認められる。そうすると、被告多喜子は、共有者である原告蕗苳及び原告智雄に対し、共有持分権に基づいて、建物収去土地明渡請求をしていることになる。しかしながら、共有持分の価格が過半数を超える者であっても、共有物を単独で占有する他の共有者に対して当然に共有物の明渡しを請求することができるものではないのであり(最判昭和四一年五月一九日民集二〇巻五号九四七頁参照)、過半数を超えない者も、同様に他の共有者に対して当然に共有物の明渡しを請求することができるものではないと解される。本件では、被告多喜子は、二分の一の共有持分を有する者であり、他に主張立証のない本件においては、共有者である原告らに対する建物収去土地明渡請求は、認められない。

したがって、被告多喜子の主張は理由がない。

二以上によれば、被告多喜子の乙事件請求は、理由がない。

(結論)

よって、原告らの甲事件請求は、いずれも理由があるからこれを認容し、被告多喜子の乙事件請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官荒井眞治 裁判官三輪和雄 裁判官齋藤清文)

別紙物件目録〈省略〉

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